2023年の年末,アルツハイマー型認知症の新薬「レカネマブ」が発売されたことをご存知の方も多いでしょう.脳や神経の病気においては,日本で初めての抗体医薬品(分子標的薬)です.抗体医薬品(分子標的薬)というのは,病気の原因となる物質に結合して作用し,その物質を除去したり無力化したりする薬で,2000年代以降,がんや膠原病に広く使われています.
アルツハイマー型認知症では,「レカネマブ」に先立って,2021年に「アデュカヌマブ」という薬が海外で発売されました.さらに「ドナネマブ」という新薬も2024年11月に発売になり,他に少なくとも7種類の抗体医薬品と2種類の核酸医薬品の治験が進行しています(核酸医薬品については後述します).
近年,原因となる物質の判明や薬の進歩により,何十年,何百年と有効な治療薬が無かった脳・神経・筋肉の病気(神経筋疾患)において,いくつも薬が登場しています.今回は,そんな話を踏まえながら,神経筋疾患の治療において何百年と閉ざされていた重たい扉が開き始めたよ,ということを知っていただきたいと思います.難しい言葉もたくさん出てきますが,なるべく解説しながら進めますので,ゆっくり読んでみてください.
神経筋疾患のうち,最も早く抗体医薬品が使われるようになったのは,多発性硬化症という神経免疫疾患です.神経免疫疾患というのは,原因となる病的な抗体が脳や神経を攻撃し障害を起こす疾患で,一般的にはギラン・バレー症候群なんかが有名です.多発性硬化症においては「ナタリズマブ」という薬が,海外で2006年に,日本で2014年に承認されました.その後,多発性硬化症に1つ(海外では3つ),視神経脊髄炎という病気に4つ(海外では3つ)の抗体医薬品が発売されています.神経免疫疾患ではありませんが,片頭痛の治療にも抗体医薬品が複数発売されています.頭痛の原因となる物質を抑え込むことで劇的な頭痛予防効果を発揮し,患者さんからは「人生が変わった」という声も耳にします.
さて,神経筋疾患のうち,特に治療が難しいのが,神経変性疾患や遺伝性の神経筋疾患です.神経変性疾患というのは,脳や脊髄の神経細胞が徐々に衰え失われていく病気の総称で,代表的な病気としてアルツハイマー型認知症やパーキンソン病,筋萎縮性側索硬化症(ALS)などが有名です.変性というのは,例えば,生卵がゆで卵になることです.蛋白質が不可逆的な変化を起こすため,元の状態に戻すことが(現代ではまだ)不可能です.神経変性疾患を根本的に治す,ということは変性した細胞を変性前の細胞に戻すことです.つまりは例えればゆで卵を生卵に戻すことですから,そもそもの治療難易度が非常に高い病気であることがわかると思います.
例えばiPS細胞などの多能性幹細胞を用いた再生医療によって,全く新しい脳や神経細胞に置き換えることができるかもしれませんが,脳や神経は他の臓器に比べて難易度が格段に上がります.置き換えるには,変性した細胞を完全に除去するとともに,顕微鏡レベルかつ超複雑な神経ネットワークにおいて,混線や短絡が無いように置き換えられねばなりません.本来無かったはずの余計なネットワークが増え続けてもいけないため,神経ネットワークの生成もちょうど良く制御されなければなりません.未知の神経回路や伝達物質ももしかして存在するでしょう.そして生命維持に必須な脳幹などの神経回路に不具合を起こさずに成されねばなりません.いつか実現するかもしれませんが極めてハードルの高い治療法です.
抗体医薬品は神経細胞を新たに作り変えることはできませんが,病気のために脳内に蓄積していく異常蛋白質を除去することで機能を改善させます.先に紹介したアルツハイマー型認知症の抗体医薬品たちは,アミロイドβという病的蛋白質を除去します.ちなみに,「アデュカヌマブ」が神経変性疾患における世界初の抗体医薬品です.治験中のアルツハイマー型認知症の薬の中にはアミロイドβではなくタウという別の異常蛋白質を標的としている薬もあり,同じくタウが蓄積する進行性核上性麻痺という病気も治療対象となっています.
この続きは次回お話します...
甲斐リハビリテーションクリニック 一瀬佑太